まるよしよもやま話(沖縄・伊良部島)

2002年4月に発売され宮古島で大ベストセラーになった「読めば宮古」。 そんな話が伊良部にもたくさんあります。 伊良部島の民宿まるよしで夜な夜な語られる伊良部の話「まるよしよもやま話」のページです。

カテゴリ: んきゃーん(昔の)伊良部

2002年4月に発売され宮古島で大ベストセラーになった「読めば宮古」。そんな話が伊良部にもたくさんあります。まるよしで夜な夜な語られる伊良部の話を紹介していきます。

【んきゃーん(昔の)伊良部】
<フナハガー>
伊良部島は石灰岩の島で川もなく、昔から飲み水には苦労をしていまいた。
雨水と井戸が命を繋ぐ水です。
そんな事もあり、昔から井戸の近くに集落が出来ました。
伊良部島は宮古島の久松から来た人々、池間島から移住した人々、八重山から海を渡ってきた人々などいくつかのルーツがあると言われていますが、人々は水を求めて定住地を探しました。
そんな歴史から、伊良部島には史跡になっている井戸が多数あります。
伊良部島では井戸がガーと言われています。
一番有名なのは観光地のサバ沖井戸として知られているサバウツガーです。
南区の五つの集落にもそれぞれの集落で中心になる井戸があります。
伊良部の集落で代表的なのはフナハガーです。
製糖工場の水にも利用されていた事もあるそうです。
フナハガーは伊良部の集落の山側にあって、木が茂る裏手の山は伊良部集落のナカドゥイ御嶽です。
最近は神事をつかさどるツカサの成り手がなくて豊年祭なども開催できないようですが、もともとの神様は宮古島の久松からに渡って来た人々が住み着いた長山の集落の比屋地(ピャーズ)の御嶽の神です。
御嶽は伊良部集落の人の精神的な中心で、井戸は命の元であったと考えられています。
御嶽には入れませんが、井戸は入れるところもあります。
伊良部島の歴史に興味のある方は、是非井戸を訪れて、昔の伊良部の空気を感じてみてください。
井戸めぐりのお供には「いらぶしまっぷ」「綾道(あやんつ)伊良部島コース」をお持ちください。
伊良部島の旅がよりディープになる事は間違いありません。
観光協会などでゲットできますよ。
フナハガー



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<駐車事情>
伊良部大橋が架かるずっと前、宮古島では駐車禁止に関しては、有って無かったような状態だったと記憶しています。
さすがにスーパーやホテルには駐車場がありましたが、路駐はあたり前で当時一番の繁華街の西里通りでも普通に見かけました。
ところが、2015年(平成27年)1月に伊良部大橋が開通して宮古島バブルおきると、交通量が爆発的に増えて、街中には「わ」「れ」ナンバーのレンタカーが溢れました。
この頃から、宮古島にもコインパーキングが登場して「自動車は駐車場に停めるもの」という考えが平良の常識になったようです。
下地島空港に定期便が復活すると更に交通量が増えて、宮古島では今まで信号は待っても一度だったのに、2回待ち以上もあるようになったとか。
そんな事もあるのか、宮古島の交通事情も大きく変化しました。
今年、宮古島に買い物に行ったまるよしの常連さんは、駐車場の無い店での買い物で路上駐車していたらわずか30秒でパトカーに注意されました。
注意だけで違反切符を切られないのはラッキーでしたが、一方伊良部島ではまだ平良ほど厳しくないようです。
しかし、国仲交差点付近では路上駐車の車が多く、信号が青になっても進めない状態が頻繁におきていて、そのたびにパトカーが注意を呼びかけています。
路駐が溢れる現象は、17エンドや中の島海岸などでも常態化していますが、ここではなぜかあまりパトカーの注意は無いようです。
「パトカーの注意問題」はさておき、来間大橋が架かる前の来間島では道路に車を止めるのはあたり前、ナンバープレートが付いていない車も堂々と走っていたそうです。
そもそも自動車の数が少ない離島の離島では当たり前の現象で、当然橋が架かる前の伊良部島も同じような状況で、島中どこでも駐車場状態でした。
橋が架かった今でも、駐車場代わりに歩道に停めっぱなしにしたり、集落の中のすれ違い不能の細い道に堂々と駐車したりする人もいたりして、「あれっこんな所に車が止まってる」という事が多々あります。
こんな光景を見かけるとなぜか「今でも離島の雰囲気が残っている」と昔を思い出してホッコリしてしまうのは、ほんとはいけない事なのでしょうね。
駐車事情



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<宮古島のカラス>
高良鉄夫琉球大学名誉教授の「甘藷害虫防除対策保護鳥獣調査報告書」によると、 1934 年代宮古島の大野山林はカラスの巣窟だったそうですが、終戦後リュキュウマツ林が伐採され芋畑に変わりました。
芋畑に変わるとガの幼虫が大発生し、芋やサトウキビに大被害が与えたため、総出でその幼虫を駆除しました。
カラスのエサとなるガの幼虫が激減するとカラスの数も少なくなったそうです。
その後、宮古島ではDDTなどの毒性の強い殺虫剤や殺鼠剤で死んだ動物を食べたり、巣を作る木の減少、台風などでヒナが死んだりして、カラスが消滅していったと考えられているそうです。
もっともいくつかの確認情報はあったそうですが、宮古島のカラスは 1980~2000 年の約21年間、伊良部島を除いて消滅したと言われています。
一方、伊良部島では1977年頃に25 羽のカラスが目撃されていて、しだいに数を増やしていったと考えられています。
宮古島では、2001 年頃から少しずつ数を増やしはじめて、2015年に伊良部大橋が開通すると、カラスも宮古島に移り住んで、急激に数を増やします。
カラスが橋を車に乗ってくるのか、歩いてくるのか、飛んでくるのか解りませんが、伊良部大橋は想定外の様々な局面で影響を及ぼしています。
2019年現在、宮古島全体では約700羽、伊良部島で約150羽、来間島で5羽、池間島で10羽のカラスが確認されているそうです。
カラスと言えば、「夕焼け小焼け」のように童謡では親しまれて、宮古島の18時の放送でも「カラスといっしょにかえりましょ」と流れていますが、どちらかと言えば縁起が悪いとか言われる嫌われ者です。
宮古島のカラスの過酷な歴史をみると、カラスの人生も波瀾万丈です。
苦手な人も多いようですが、見かけたら優しい目で見守ってやってください。
宮古島のカラス



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<アイスケーキ>
アイスケーキ内地でアイスケーキと言えば、だいたいアイスクリームのケーキのことを言います。
そもそもアイスケーキとは、普通のケーキの台となるスポンジケーキの代わりにアイスクリームを使って、果物や生クリームなどで飾りつけをしたものです。
日本では、昭和50年代にスポンジケーキのクリスマスケーキが一般に広まって、その後誕生日やクリスマスなどの機会にも利用されるようになって、その後アイスクリームを台にしたアイスケーキが登場したとの事です。
思い起こしてみると、冷蔵庫が進化して2ドア冷蔵庫が登場して、冷凍庫が大きくなった頃と重なるのでしょうか。
ところが伊良部でアイスケーキと言えば、アイスキャンディのことを言います。
20年程前にまるよしの道路が拡幅される前には、まるよしの隣にアイスケーキの店がありました。
ずっと昔、内地では割り箸の周りに粉末ジュースを凍らせたアイスキャンディを食べて口の周りを真っ赤にした子供がたくさんいました。
食べきるとスティックにヒット・二塁打・ホームランなどと焼き印されていて、1点入るともう一本おまけが貰えるるホームランバーというアイスクリームもあったそうです。
今は美味しいお菓子がたくさんありますが、当時は日本全国どこででも1本のアイスケーキがたまらなく美味しく感じられた時代でした。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<ホテル共和>
昨年、以前から噂があった宮古島の老舗ホテルのホテル共和が閉館しました。
宮古島で前浜の東急リゾートやドイツ村のブリーズベイマリーナホテルが出来る前は、共和や丸勝や宮古セントラルホテルが代表的なホテルだったように記憶しています。
宮古島の人気が高まると、ホテルの建設ラッシュが始まり、今では名前を覚えきれないほどです。
裏を返せば、昔は名前と場所がすぐ一致するほどの数のホテルしか無かったということです。
宮古バブルの襲来とともに、ホテル業界の地図も大分変りました。
老舗のホテルでは丸勝は引き続き営業中、セントラルホテルはリニューアルして営業開始、共和は昨年10月に閉館して久松に新しいホテルをオープンしました。
まるよしに通う常連さんも、橋が架かる前は宮古島のホテルに1、2泊するのが普通でした。
海が荒れると欠航する船の状況を考えれば、宮古島に最低1泊はしないと安心できません。
常連さんの定宿は共和だったそうです。
理由は行きつけの居酒屋から近くて、飲みすぎても這って帰れたからだそうです。
宮古島の創生神話もある漲水神社の近くで立地も良く、ビジネスやマリンレジャーや団体ツアーの観光客で賑わっていました。
最上階の宴会場は還暦祝いの会場にもなったりして、伊良部島の人にも利用されていました。
併設された食堂のランチタイムは島の人でいっぱいで、朝食を食べにくる地元の人もいました。
夕方6時には宮古神社の鐘の音が響き、条件反射のように「さあそろそろ飲みに行くか」という風になります。
伊良部島行きの定期船への乗り場も近く、スタッフも親身で居心地が良いホテルとの評判でした。
「宮古島では共和」と決めていた常連さんにとって、あって当然だったものが姿を消すのは淋しいものです。
共和は一つの例ですが、ホントに良いと思うものはその時は解らなくても、無くなって初めてわかるものです。
ホテル共和



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<伊良部の新聞>
新聞と言えば、本土には朝日、読売、毎日、産経などの全国紙があります。
沖縄県には沖縄タイムス、琉球新報があります。
宮古島には宮古毎日新聞と宮古新報の地方紙があります。
宮古島にはかつて日刊宮古という新聞もあって、離島には珍しく地方紙が3紙あった時期がありました。
一般に宮古島や石垣島は離島と言われていて、伊良部島は離島の離島と呼ばれています。
全国紙からみると沖縄島も離島で、宮古島は離島の離島、伊良部島は離島の離島のさらに離島という事になります。
印刷して届けるという新聞の性質上、宮古島で全国紙の新聞をリアルタイムで読むことは物理的に無理で、伊良部島では朝日、読売、毎日、産経などの新聞は見かけません。
そんな訳で、船の時代には早朝に新聞が配達される事は不可能で、届くのは朝一番の船が着いてしばらくしてからでした。
海が荒れて欠航になれば、新聞自体が何日も届かない事もありました。
そんな時代の新聞情報は貴重で、3紙もあったことが何となくわかるような気がします。
しかし3紙あった宮古島の新聞も、日刊宮古は1992(平成4年)年3月に廃刊となり、宮古新報も3年ほど前に廃刊の危機がありました。
転じて今は、インターネットで色々な新聞も読める時代ですが、興味をそそる見出しの付いた情報しか読まないと言われています。
新聞はめくると嫌でも色々な記事が目に入ります。
情報の無い時代、新聞の貴重な情報を隅から隅まで読んだことが懐かしく思い出されます。
スマホやパソコンの画面に慣れない世代には何度も読み返せる新聞だけでなく、しおりを挟んですぐ続きを読める本などの紙媒体が安心です。
昭和を生きたアナログ世代のためにも、これからも宮古島の新聞は生き残り続けてほしいものです。
日刊宮古



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<通り池のトイレ>
通り池の駐車場は2年ほど前の2021年4月に拡張されました。
そもそも伊良部大橋が架かる前は、フェリーの便数やキャパもあって、観光で来る車の数も限られていました。
そんな訳で観光の大型バスが来ても余裕がありました。
しかし、2015年1月に伊良部大橋が架かると状況は一変します。
レンタカーの他にも、大型バスがひしめいて駐車場はあふれました。
その頃からトイレも比例して増えて行きます。
そもそも下地島の観光ルートには、通り池の駐車場しかトイレがありません。
どこでも用を足せる人はともかく、マリンスポーツを楽しむ人にとっても貴重なトイレです。
橋の開通にあわせて新しいトイレを作ったのは良かったのですが、想定を上回り、直ぐに3つ目のトイレが建てられました。
レンタカーのお客さんはさんさんごご訪れるのでトイレの数は充分足りていたようですが、観光バスのお客さんは一度に押し寄せるのでトイレは混み合います。
通り池駐車場のトイレ増設はバブルの縮図です。
もともとのトイレは歴史の証人として、2つのトイレの後ろにひっそりと姿を隠しています。
昔のトイレの景色を改めて見ると、のどかな時代を思い出してなぜかホッとします。

通り池のトイレ02
(2022.03)

通り池のトイレ01
(2022.03)

通り池トイレ2011
(2011.07)



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<キドマリ浜>
通り池の北側にかつてあったキドマリ村については以前話題になりましたが、昔の集落のあった場所をたずねて、ずっと昔の下地島の姿を想像してみるのも楽しいものです。
現在、キドマリに行くには通り池の入り口の十字路付近から、草木に覆われた道を歩いて行くことになります。
昔は一周道路から入って山の中を行く道も有ったそうですが、今、道は木々に隠れています。
入り口から海が見えるところまで、歩く距離は200mほどです。
そこから右手に行くとウツヌバタと呼ばれる浜まではすぐです。
海に沿ってサンゴ岩を行く左手には島の釣り人などがたまに訪れるようですが、浜まで行く人はほとんどいません。
琉球大学のキドマリ村の調査報告書によると、大潮の日は小魚が多く入ってくることから、昔はこのビーチで網漁を行っていたそうです。
山の向こうのレーダー以外は人工の物が全く見えないキドマリの浜で、ゆっくりとのんびりと貸し切り状態で昔の生活を想像するのも贅沢かもしれません。
ウツヌバタの浜は遠浅でサンゴが点在していますが、夏の干潮時には浅いプール状態で水温もお湯のようになる時もあります。
海に入るには安全と思われますが、子供の水遊び程度で、シュノーケルを楽しむには沖のキドマリバタと呼ばれるところまで行った方が良いでしょう。
キドマリバタはプゥルと呼ばれる海岸からのアプローチの方が楽なので、キドマリでは海岸付近を探検して楽しんだ方がよさそうです。
キドマリ浜の行き帰りの道は、浅い山でも木の根やサンゴ岩も多く、足元はでこぼこなので、転んだら大けがする恐れもあります。
危機管理のためにも靴や長袖・長ズボンの装備が必要と思われます。
準備万端でタイムスリップしてください。
キドマリ浜



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<浜の名前2>
伊良部島・下地島の浜にはそれぞれ名前が付いています。
今のおじぃ・おばぁの世代の一つうえの世代まではまだその名前で話します。
残念ながらその世代は少なくなってきたので、何でその名前で呼んでいるのか、本来の意味が解からないところもたくさんあります。
今は有名になった中の島ですが、おじぃ・おばぁはフランス語の発音でカヤッファと言います。
昔、屋根に葺く萱の原があったためと言われています。
同じ浜に行き着くのに入り口が違うと、同じ場所でも呼び方が違う場合もあります。
下地島の帯岩と通り池の間の浜はピサラブ(ピサラボウ)と呼ばれています。
一周道路の帯岩と通り池の入り口の間には今でも、浜へ向かう道が2本有ります。
2本の入り口は近くにありますが、道がカーブしている事もあって、浜の出口は離れます。
帯岩側から入る浜はナカラ、通り池側から入る浜はピサラブです。
確かに2つの浜は一体ですが、ピサラボウオコバナリと呼ばれる岩を挟んで反対側になります。
ピサラボウについては宮古島のピサラ(平良)へ行く船着場があったとか言う人も居ますが、定かではありません。
勝手に考えてみると、ナカラはピサラブの真ん中当たりに位置するからか、とかピサラボウオコバナリはピサラブの浜の沖の離れ島なのか、とか想像が膨らみます。
今は島言葉を残そうという流れがありますが、地名の由来についても是非記録に残してもらいたいものです。
おじぃ・おばぁに昔からの浜の名前を聞いて、何でそんな風に言われるようになったのか、思いめぐらすのも楽しいものです。
浜の名前ピサラブ



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<着衣水泳>
紫外線の悪影響が知れ渡ってきた今では、海に入るにはラッシュガードの着用が普通になっていますが、少し前までは水着だけで入るのが普通でした。
特に観光客の中には、露出の多い派手な水着で甲羅干しをして、目のやり場に困った事も有りました。
そんな時代にも、島の人は長袖のTシャツを着て海に入ります。
特に子供は短パンにTシャツの着衣水泳が基本です。
夏場、学校が終わると海で遊ぶ姿が見られます。
入江で泳いだり、橋から飛び込んだり伊良部の子供は元気です。
宮古島、伊良部島の大人は基本的に日中の暑い時期は外に出ません。海に入るのも夜明け前か夕方です。
ところが大潮の干潮時の潮どまりの頃には、日中でも家族連れが弁当を持って潮干狩りに来ます。
岩陰に荷物を置いて、潮が引いて浅くなっているリーフの上を歩いて貝を拾います。
暑くても獲物があるこの時ばかりは例外です。
最近は島の人もラッシュガード姿が普通になりました。
話は戻りますが、理由はともあれ、昔から長袖で海に入っていた島の人は先見の明があったと言わざるをいません。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<民間療法2>
伊良部村史以前にも話題にのぼった伊良部島の民間療法ですが、「伊良部村史」によると昔、島の人は病気になるとユタに頼っていたそうです。
ユタのお告げで神願いを行うことになりますが、それでも治らない場合、最終的には島に伝わる漢方治療を試します。
そんな民間療法の中にはなるほどと思われて、今でも試したいものもありますが、とんでもないと思ってしまうものもあります。
当時の治療法の中には「腹痛にはンギャナ(ニガナ)を煎じて飲む」とか「下痢はバナナを食べる」というのがありますが、これらは何となく効きそうです。
「はやり眼は、朝、自分の尿で洗う」というのもありますが、尿には消毒効果があるという話もあるので、これは100歩といわず10000歩譲れば、奇跡的に効きそうです。
「歯痛には酒を飲む」というのも有りますが、酔って麻酔が効いているうちは良さそうですが、酔いがさめた時の事を考えるとぞっとします。
伊良部島で現代のような診療が始まったのが、明治30年頃だそうなので、それまではこのような原始的な治療だったようです。
それでも、なかには今でも効果がありそうなものもあるので、お困りの方は藁にもすがる思いで、伊良部村史を紐解いてみてください。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<くすり漁>
青酸カリを使った爆弾漁については前にも話題になりましたが、佐和田の住民におこなった聞き取り調査「伊良部島の有用動植物の記録」によると、佐和田では昔、青酸カリその物で魚を捕ったそうです。
当時は鉄を固めるために青酸カリが必要で、丸い粒で普通に売っていました。
その粒を割って布で包んで、銛の先に縛って魚が潜む岩陰に沈めると、魚がプカプカ浮いたそうです。
他に植物の毒を使って魚を酔わせたり、石灰を使って魚を弱らせる漁の方法もあったそうです。
魚を酔わせる漁法は、まるでお目当ての彼女をお酒に酔わせてお持ち帰りするみたいです。
情報が溢れる今とは違ったずっと昔、「目薬を飲むと腰が立たなくなると」言う話を信じた人が、後輩に「苦くない目薬を買ってこい」と用意させて、飲み会の席でお酒に混ぜてお目当ての彼女に飲ませようとした事があったそうです。
ところが、「本人が間違えて飲んで悪酔いしてしまった」という嘘のようなホントの話をまるよしの常連さんから聞いたことがあります。
この話とは直接関係はありませんが、今のように品物が豊富でない時代は、その時手に入るもので色々工夫して考えたりしたものです。
中には失敗して痛い目にあったり、苦労が絶えなかったようですが、昔は自分で色々考えて行動する時代でした。
すぐに手に入る与えられた情報だけで、あまり考えずに行動する風潮の今日この頃ですが、「苦くない目薬事件」は今も昔も犯罪なので、決して真似してはいけません。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<植物学者>
昔、都会と違って地方では結婚する年齢も早く、高校を卒業する頃の年齢での結婚はあたり前でした。
伊良部島でも結婚する年齢も大分早かったようです。
最近は田舎でも都会と同じように晩婚が多くなったと聞いていますが、伊良部島では今でも結婚する年齢は大分早いようです。
そんな訳で伊良部島では若いおとぅ、おかぁがたくさんいます。
50代のおじぃ、おばぁはざらで、中には40代はじめでおばぁになった人も見うけられます。
そんな年代のおじぃが子供だったころ、小学校に入るとヤギのエサを捕ってくるのは子供の仕事でした。
当時は各家にヤギ、豚、鶏がいるのはあたり前で、一家の皆はそれぞれの家の仕事の役割がありました。
伊良部島ではピンザと呼ばれるヤギのエサを採るのは子供の仕事です。
子供は遊びたい盛りなのですが、ヤギのエサ採りは必須です。
ヤギのエサは植物です。
植物といっても色々あって、ヤギの好みのエサもある一方、毒になるエサもあるそうです。
早く仕事を終わらせて遊びたい子供たちは、必死に仕事をします。
そんな事もあって、小さな子供の頃から植物の名前や特徴を覚えていきます。
まるで植物学者です。
ヤギのエサは一例ですが、生活に必要な知恵は生活の中ですべて身についていきます。
まさに身の回りのすべての物が教材でした。
今のおじぃおばぁの年代より上の世代は、なんでも知っている先生です。
そんな事もあるのでしょうか、伊良部島では年長者を敬い、大事にする生活が脈々と続いています。
植物学者ピンザ



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<土葬>
伊良部島では1960年(昭和35年)ぐらいまで人が亡くなると火葬ではなく土葬でした。
もっとずっと昔には海岸の洞窟などに風葬したこともあったそうです。
沖縄など南の島では、この世と海の向こうの常世との境に渚があり、夜と昼の境界にたそがれがありました。
渚やたそがれはそれぞれをつなぐはっきりとした境の無いもの、今で言うグレーゾーンと考えられていたそうです。
そんな事もあって、人が亡くなると渚に風葬したと考えられています。
宮古島でも島尻の海岸などで、その名残が見られます。
伊良部島でも中の島海岸付近などで風葬されたという海岸線の洞窟などが残っています。
「伊良部村史」によると昔、伊良部島ではお墓はガマと呼ばれる自然の洞窟を利用していたそうですが、その後、小高い丘や崖下などに横穴を掘るようになったとの事です。
平地にお墓が造られるようになったのは明治の頃からです。
離島にはありがちな事ですが、伊良部島ではコレラなどの伝染病の患者を海岸に埋めた事もあったそうです。
今は、バブルで海岸線が開発されてあちこちにホテルなどの計画があります。
伊良部島では不思議なことが起きるので、むかしからの言い伝えや歴史を調べてから建物を建てた方が良さそうです。
アッタバサマの洞窟



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<水中眼鏡>
シュノーケルで必需品のマスクやゴーグルですが、昔は水中眼鏡と呼ぶのが普通でした。
水中眼鏡が宮古島に伝わったのは、明治21年頃だと伊良部村史に書かれています。
伊良部村史によると、沖縄の糸満の漁師が池間島近海で使用していたのを、池間島の漁師が粟と交換したのが始まりだそうです。
その後、その水中眼鏡を真似て宮古めがねと呼ばれる水中眼鏡を作りました。
材料はモンパの木です。
モンパの木は柔らかく加工しやすく、乾燥しても変形しないことから水中眼鏡に最適の材料となったそうです。
モンパの木は至る所にあるので、大量に眼鏡は作られました。
これが早くも翌年の明治22年に佐良浜に伝わったそうです。
当時は樽にガラスを張った樽眼鏡という道具で海中を覗いて貝などを採っていましたが、水中眼鏡の普及で漁獲量は飛躍的に伸びたそうです。
その後アギヤーを呼ばれるグルクンの追込み漁などで、水中眼鏡は活躍します。
伊良部島では島の人が漁業で使うのが一般的だった水中眼鏡も、いまはマスクやゴーグルと名前を変えて観光で海遊びをする人に使われています。
ちなみにモンパの木の葉っぱは曇り止めにも使われています。
モンパの木自体は地味な木ですが、昔の伊良部島では大きな役割を果たしたようです。
海岸にお出かけの際は、是非モンパの木にも目を向けてみてください。
モンパの木



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<置き薬>
昔、伊良部島では置き薬が一般的でした。
そもそも置き薬とは、薬屋さんが救急箱に必要な薬をつめて各家庭に置いていく制度で、置き薬の販売業は300年以上も前から富山で始まった商法だそうです。
今でこそ伊良部大橋が架かりドラッグストアが乱立している宮古島ですが、橋が架かる前の離島の生活に目を向ければ、なるほどと納得します。
宮古島との定期船は佐良浜発の始発が7時台のはじめ、最終は夏ダイヤでも19時発で普通は18時台です。
最終の船が出ると、朝まで島から出ることは出来ません。
当時は夜に産気づくと船をチャーターして、妊婦を宮古島まで運ぶこともありました。
そんな離島の生活では置き薬が威力を発揮します。
体調が悪くなると、まず置き薬を飲みます。
伊良部島にも宮古島に事務所がある薬屋さんが定期的に船で来て、薬の補充をしていきます。
料金は使った分の薬だけで、要らない薬は無料で交換します。
橋が架かる前は、まるよしにもそんな薬屋さんが不定期に宿泊していました。
今では、宮古島に薬を買いに行く人も増え、まるよしに薬屋さんが泊まる事も少なくなりました。
それでも置き薬で育った世代の信頼度はまだまだ高く、置き薬の伝統は脈々と続いています。
平良港



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<キドマリ村>
下地島の北東にキドマリ呼ばれていた場所があります。
通り池の北側にあたり、キドマリ村という集落があったそうです。
2013年に行われた琉球大学の調査によると、集落の後の石積みなど集落の跡が確認されています。
集落は1771年の大津波より前の津波で姿を消したとされています。
通り池の入り口から北の17エンドに向かう一周道路の左手はキドマリ山と呼ばれていて、木が茂っていました。
伊良部島で山と言えば木がたくさん生えた場所をさします。
今は植林された場所が多いようですが、昔はリュウキュウマツの森でした。
地図や航空写真を見ると解りますが、キドマリ山には何か所か池があります。
通り池のように石灰岩が陥没したドリーネと呼ばれる池だそうですが、そのあたりにはヤシガニがうようよいたそうです。
近世まで村に接するキドマリ浜では小魚の網漁が行われて、キドマリ山の西側のプゥルと呼ばれた一帯の海岸では、大きな魚を捕っていたとの証言もあるそうです。
最近ザンヤという海岸からキドマリバタに潜った人の話では、岩陰にイセエビも見かけたそうです。
17エンドの絶景も素晴らしいですが、ちょっと寄り道して昔のキドマリ村を探検するのも楽しいかもしれません。
キドマリ浜



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2002年4月に発売され宮古島で大ベストセラーになった「読めば宮古」。そんな話が伊良部にもたくさんあります。まるよしで夜な夜な語られる伊良部の話を紹介していきます。

【んきゃーん(昔の)伊良部】
<落とし紙>
伊良部島に関する数少ない本のなかに「伊良部島の有用動植物の記録」というものがあります。
伊良部島で里の周辺にあった動植物を、かつて「どのように利用していたか」を島の年配者に聞き取った記録です。
内容は様々に渡っていますが、昔の伊良部島を知るには貴重なものです。
聞き取りは主に佐和田の住人に行ったものですが、まるよしで話される話題と重なるものも数多くあります。
「植物利用のあれこれ」という章では、「クワズイモの葉っぱを傘代わりにした」という昔の鳥獣戯画のような話や、「ハマユウの茎で風船を作った」とか、「ガジュマルでチューインガムみたいなものを作った」とか、「月桃の葉っぱでセミを捕った」とか、食用にする以外にも様々な利用をしていたとの事です。
そんな利用のなかに「ユウナの葉っぱを落とし紙にした」という話がありました。
今の若い人は落とし紙と言ってもピンとこないと思いますが、トイレットペーパーなど無かった一時代前は、都会でも新聞紙を切ってポットン便所で使っていました。
伊良部島では昔、学校にユウナの葉っぱを何枚も持って行くというノルマもあったとか。
植物の利用については、今の時代に昔と同じように利用する事は難しいと思いますが、これは覚えておいてください。
お出かけになって切羽詰まった時に役立つかもしれません。
ユウナは海岸の近くには必ずと言っていいほどあります。
ユウナの葉っぱは柔らかく、3枚ほど重ねると良いそうです。
ユウナの葉



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2002年4月に発売され宮古島で大ベストセラーになった「読めば宮古」。そんな話が伊良部にもたくさんあります。まるよしで夜な夜な語られる伊良部の話を紹介していきます。

【んきゃーん(昔の)伊良部】
<島トウガラシ>
コーレーグース伊良部島の民間療法については何度が話題になっていますが、伊良部村史によると「目にゴミが入るとトウガラシを食べる」というのがあります。
沖縄では島トウガラシとして知られていて、泡盛に漬け込んだ激辛の調味料コーレーグースが有名です。
本当に効くのかと思いますが、トウガラシなどの香辛料は刺激が強くて鼻が刺激されて、鼻水が出たり、涙があふれる事もあります。
涙がゴミを流してくれるという事で何となく納得してしまいます。
トウガラシはなかなか身近にはありませんが、今度目にゴミが入ったら試してみてください。
トウガラシが無い場合、コーレーグースが代わりになるかも知れないので、タップリかけて涙を流してください。
昔の人の知恵に驚かされるかもしれません。
トウガラシと言えば以前、居酒屋でトウガラシの実を触った手でトイレに行って、お〇ん〇んがヒリヒリして大変な目にあった人がいました。
目にゴミが入ったからと言って、トウガラシを食べた手で間違っても目を触らないようにしてください。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<島痛み>
沖縄に関する研究に「島痛みの歴史に学ぶ」という論文があります。
島痛み(しまちゃび)とは、飲み水にも不自由する不便な生活を強いられる島の生活で島の心が痛むことを指しています。離島苦とも言われています。
筆者の沖縄学研究者・外間守善氏は、「近代社会のとぎすまされた精神風景のなかに住む人たちの心の痛み」として「町痛み」という言葉についても触れています。
論文では、沖縄の復帰運動が高まった昭和40年代に問われた本土の沖縄に対しての差別に関して書かれていますが、同時に沖縄の島々の間での差別も取り上げています。
悪いことをした人について、内地で聞くと悪いことをするのは沖縄の人、沖縄で聞くと宮古島の人、宮古島で聞くと伊良部の人、伊良部で聞くと佐良浜の人という具合です。
差別の原因は経済的な貧しさです。
同じことを佐良浜の人の聞くと笑うだけだったとの事です。
それだけ伊良部島、佐良浜は貧しかったという事でしょう。
今では表だっての差別は無いようですが、内地でも江戸時代は士農工商の身分の下に穢多(えた)とか非人(ひにん)を置いて、不満のはけ口に利用しました。
自分より不幸な人がいると、何となく安心するという人間の心理の弱点をついた、今でもずっと続いている支配の構図です。
今のコロナの状況でも似たようなことが起きています。
コロナで心に余裕のない時ですが、こんな時こそ自分の心を見直して、穏やかでありたいと思います。
コロナが落ち着いた折には、伊良部島の美しい景色の中で、心の栄養補給をしてください。
ぴんざの子供>



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<チビタオルジィ>
津波で打ち上げられた岩の事を津波石と言います。
有名なのは下地島の巨石「帯岩」です。
1771年の明和の大津波で打ち上げらえたと言われていますが、下地島は何回か大きな津波に襲われたことがあるとの事で、明和の大津波以前に打ち上げられたのではという説もあるそうです。
レーダー基地のそばに眠っている大岩も昔の津波石と言われています。
カッフィに向かう農道の途中にチビタオルジィという津波石があります。
チビはお尻、ジィは石なのでお尻が倒れている石という意味だと言われています。
実際、この岩をよく見てみると「なるほど」と思ってしまいます。
この岩がいつの津波で打ち上げられたのか解りませんが、こういう津波石にはそれぞれ名前が付けられています。
ちなみに帯岩はウプスクビジィ(大きな帯の石)です。
珍しい景観をつくる佐和田の浜の津波石にも名前がついているそうです。
今では津波石に付いた昔からの名前について、すべての記録は残っていないようですが、大先輩のおじぃやおばぁに聞けばいくつか解るかもしれません。
津波石に限らず昔からの場所や物には名前が付けられていました。
昔から言い伝えられた地名などを聞いたら、実際にその場所に行って「何でそんな名前が付いたんだろう」と想像してみてください。
旅の楽しみが増すことは間違いありません。
チビタオルジィ



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<酒と喧嘩>
慶び昔、伊良部では島酒は貴重品で高価でした。
今のように毎日のように晩酌とはいきません。
みんな貧しく、島酒も量り売りで一合ずつ買ったものです。
中にはツケで買って踏み倒す輩も多かったとか。
そんな事もあったのでしょうか、なにかの集まりがあって酒が振舞われた時などは、ここぞとばかりにタップリと飲んだようです。
そんな時には必ず言い争いや喧嘩になって大変な事になりますが、またしばらくすると凝りもせずに皆で飲んで喧嘩が始まります。
酒に喧嘩は付き物だったようです。
祭りなどは正にそんな時で、酒を飲むと必ず喧嘩が始まったそうです。
そんな昔の名残もあるのでしょうか、一昨年の豊年祭(ユークイ)でも喧嘩が始まってパトカーが出動しました。
喧嘩は論外ですが、100歩譲ってコロナで自粛が続いている今日この頃、酒でも飲んで羽目を外したい気持ちはわかるような気もします。
この事態が早く終息して「あの時はあんなだったね」と思いつつ、喧嘩もせずに楽しくわいわい飲みたいものです。



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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<運搬船>
伊良部大橋が架かる前は、伊良部島の佐良浜港と宮古島の平良港の間に高速船とフェリーが運航していました。
そのずっと昔には渡口の浜からも運搬船が出ていた時代もありました。
運搬船とは人や物を運ぶための船の事ですが、当時の漁船と区別してそう呼ばれていたと思われます。
北区の住民は佐良浜港から平良へ出航し、南区の住民は渡口から宮古島へ往復していましたが、長山港からの航路があった時代もありました。
伊良部村史によれば明治の後半に始まった宮古島への運搬船は帆船でしたが、大正時代の半ば頃に発動機船になったそうです。
帆船の頃は平良まで約4時間、発動機船でも2時間ほどかかったと村史には書かれています。
そんな歴史を感じられる名残が残っている場所もあります。
古くは平良と行き来したのではないかと言われる、ピサラブーの名の残る下地島の海岸もあります。
ちなみにピサラは平良、ブーは岩だと言われています。
有名なのは渡口から出航していた伊良部丸です。1940年に遭難して慰霊碑が建てられていますが、最近はホテルが建設され慰霊碑へ続く道の入口も解りづらくなっています。
渡口の浜には船着き場の桟橋だったと言われる石積みも残っています。
下地島のサトウキビ畑には難破したと言われる朽ちた船が眠っています。
今は当時の役割を終えて、隠れビーチへの入り口の目印として一部の人に貢献しています。
ガイドブックに紹介される観光地も素晴らしい所が多いですが、昔の海上交通に思いを巡らすディープな島巡りも楽しいかもしれません。
渡口

朽ちた船


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<緊急車両2>
伊良部大橋が架かる前、宮古島との間には一日何便かのフェリーや高速船が往復していました。
船は一時間に1便程度で、混み合う時間帯は船待ちもあって、島から出るのも時間が掛かり一苦労です。
運航は朝の7時ころから夕方は夏でも18時頃までで、夜になるとある意味「孤島」となります。
台風が近づいた時などは、船は数日間欠航となり文字通り孤島となります。
そんな事も有るのでしょうか、ある意味治外法権の世界でした。
当時、伊良部島の病院は徳洲会の診療所だけで、大きな病院はありません。
警察署もなく派出所や交番が何か所かあるだけです。
緊急車両サイレンが鳴る事も珍しく、音が聞こえるとみんな外を眺めて、音の原因を探したものです。
当時、救急車で歯医者に通ったり、パトカーをタクシー代わりに有効利用する強者もいたそうです。
橋が架かると離島の常識も変化してきましたが、サイレンが響くと昔から刷り込まれた性癖で、ついつい外を覗きます。
緊急車両も珍しくなくなり、大げさではなく2日に一回はサイレンを耳にする気がします。
サイレンの回数が増えたのは、もしかして強者おじぃが宮古病院までの往復に使っているのかもしれません。
佐良浜港


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<ナガビダ>
1972年(昭和47年)に下地島空港の工事が着工し、埋め立てによって北側の滑走路が建設されました。
管理道路がぐるりと囲む、現在「17エンド」と呼ばれている場所です。
空港が出来るまでは、そこのビーチはナガビダと呼ばれるイノーでした。
イノーとはリーフに囲まれた浅いおだやかな内海の事です。
名前からも紐解けるとおり、ナガビダには遠く白波が立つリーフまでの遠浅の長いビーチが広がっていました。
当時を知るおじぃの話では、現在の魚垣のある場所から西に向って、あと二つほどの魚垣があって、工事が始まるまで使われていたそうです。
今は誰もが訪れる17エンド。
今の景色も絶景ですが、佐和田の浜方面の管理道路の現存する魚垣から、通り池側の管理道路の付け根まで続く、ナガビダを思い描いてみてください。
白波が砕けるリーフに分けられたマリンブルーの外海と内側の穏やかなエメラルドグリーンのイノーは雄大で、今とは違う絶景になっていたことでしょう。
近代的な構造物のない伊良部島の原風景を眺めた人の心が穏やかになったことは間違いありません。 
ナガビダ


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<おはじき>
今はスマホやゲーム機で遊ぶ子供が当たり前の世の中ですが、昭和の時代は物も限られていました。
うわさ話には聞いていても遊び道具も手に入らず、身近なもので遊んだものです。
鬼ごっこや縄跳びはどこでもあったようですが、まるよしの常連さんによると、内地のある地方では警察と泥棒という鬼ごっこもあったそうです。
警察と泥棒の2チームで警察が泥棒を捕まえるという単純な鬼ごっこですが、警察が鬼というのも何となく納得してしまいます。当時の子供にとって、お巡りさんは怖い存在だったのでしょう。
その頃はそんなふうに、道具も使わずに日本中どこでも子供なりに工夫した独自の遊びがあったものです。
おもちゃは手に入りませんが、その分子供は純粋な発想で独創的な遊びをしたものです。
物資が少ない伊良部島ではサザエの蓋でおはじきをしたり、サシバの季節には羽根を切ったサシバに下駄などの重りを付けて飛ばしたり、島独特の遊びを考案して遊びます。
アマンと呼ばれるヤドカリを釣りの餌にしたり、乗瀬橋から入り江にダイブしたり、身近な物や場所すべてが遊びの材料になりました。
転じて現在はネットでの購入も可能となり、全国一律に近い状態で物が手に入ります。
望む物がすぐに手に入る便利な時代になった反面、自分たちで色々遊びを考えたり、友達といろんな会話をする機会が減ってきています。
サザエの蓋でおはじきをした時代は、貧しくて物が無かった半面、ある意味豊かな時代だったのかもしれません。
チョウセンサザエ


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<B&G海洋センター>
かつて伊良部島の佐和田の浜の近く、伊良部島民の憩いの場、平成の森公園の隣にB&G海洋センターがありました。
B&G海洋センターはB&G財団が出資して全国各地に設置されたもので、伊良部島にも1984年長浜に体育館・プール、佐和田に艇庫が整備されました。
そもそもB&G財団は1973年にモーターボート競走法20周年を記念して設立された財団で、青少年の心身の健全育成と国民の健康づくりなどを目的としています。
B&GのBとGとは青い海(ブルーシー)と緑の大地(グリーンランド)を意味するそうです。
設立当時は伊良部町は管理運営だけ行っていましたが、1987年には町に無償譲渡され、2005年の合併で宮古島市が引き継ぐことになりました。
ところが、プールは2009年あたりから休止状態、艇庫の利用は年に数回程度、体育館は老朽化ということで、2013年7月から休館となります。
その後、体育館は伊良部高校のバレー部や社会人のスポーツサークルやロマン海道伊良部島マラソン時などに使用され、艇庫も南区の海神祭などにも利用されていましたが、プールと共に2015年には取り壊しとなりました。
今でも、デイゴの開花時には必ず話題になるB&G海洋センター、隣では伊良部球場の工事が進んでいます。
夕方隣接する平成の森公園では、グランドゴルフを楽しむ人や、サシバの滑り台で遊ぶ子供を見かけます。
かつての海洋センターの表札は伸び放題の木々に隠れてしまい、来年以降は景観が大きく変わることが予想されます。
観光で訪れたあなたも今の姿を是非、目に焼き付けておいてください。
B&G海洋センター02 B&G海洋センター


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<盆踊り>
今年はコロナで開催中止が多いようですが、夏の風物詩と言えば盆踊りです。
やぐらの上で太鼓をたたいて、炭坑節や東京音頭などの曲にあわせ、やぐらの周りを踊りながら回ります。
一斉を風靡した盆踊りも時代の経過と共に、高齢化や文化の多様化による若者の盆踊り離れなどによって集まる人が減り、存続の危機に陥りました。
ところが、最近和洋にかかわらずに、色々なヒット曲を流してディスコ風に踊る、盆ダンスが盛り上がっていると報道されています。
親父ギャグのようですが、ボンジョビの曲が流れる事もあるとか。
そういう曲でも、従来の振り付けでオーケーだそうで、老若男女が集まりはじめ、最近は浴衣で踊る外国の人も多いそうです。
伊良部島でもともと盆踊りが行われていたかは不明ですが、一説によると内地に働きに行って盆踊りの存在を知った国仲のNさんたちが始めたという説があります。
当時、伊良部郵便局の裏手は広場になっていて、集落の様々なイベントが行われていました。
Nさんたちは地元の元気を支える青年団に働きかけて、盆踊りの開催にこぎつけます。
やぐらなどの会場作りはもちろん、様々な打ち合わせや準備が必要だったようで、当然青年団のメンバー同志の距離は縮まります。
内地でも祭りの夜は無礼講と言われていますが、祭りの夜は男女のなかも無礼講です。
国仲に盆踊りを広めたといわれるNさんも、祭りの夜の例に漏れず、太鼓をたたいた青年と結ばれたそうです。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<定期船>
2015年に伊良部大橋が架かってから、今年で5年が経ちました。
伊良部島の人の生活は大きく変わりました。
開通した当時は物珍しく、用も無いのに宮古島に行く人も多く、一日に3往復する人もいました。
宮古島の住民も無料で渡れると言うことで、この機会に初めて伊良部島に来る人もあったくらいです。
最近はようやく落ち着いてきたようで、橋があるのが当たり前になりました。
伊良部大橋は絶大な宣伝効果で観光客は爆発的に増加しました。
ここで改めて思い出されるのは、定期船です。
島の人にとって、高速船やフェリーはかけがえのない交通機関で島民の足でした。
観光客にとっても、船で伊良部島に渡ることは旅愁をよりかき立てられたはずです。
ずっと昔は、佐良浜と渡口から日に1本という時代もあったそうで、時間も一時間ほどかかったということです。
近い時期では、一日に宮古フェリーの高速船が11~12便とカーフェリーが6便ほど、はやて海運の自動車も積める高速旅客船が11~12便、カーフェリーが7便ほど往復していました。
高速船は片道15分弱、フェリーは30分弱かかり、積み残しも頻繁にありました。
乗船できる自動車の台数も限られていたため、海を渡るのも一日がかりでした。
今となってはうぷゆう、ゆがふ、ゆうむつやスーパーライナー、はやてという船名が懐かしく感じられます。
島民の足としての復活は難しいと思われますが、何かの折に復活してもらいたいものです。
うぷゆう


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<ビール配達>
まるよしが現在の姿になったのは、前の道が拡幅された2000年(平成8年)ですが、それ以前も民宿と商店を経営していました。
開業は1973年(昭和48年)と沖縄が本土に復帰した翌年です。
その頃、切り盛りしていたのは先代女将でした。
まるよしの近くの伊良部中学校は1948年(昭和23年)に誕生しました。
伊良部村史によると1970年(昭和45年)には生徒数498名、学級数12学級で、まるよしが開業した当時も同じような生徒数だったと思われます。
今でこそ少子化で、伊良部中学校と佐良浜中学校は統一されて、小中一貫校として生まれ変わりましたが、当時は一学年4クラスで40名ほどの生徒がいた事になります。
激務に追われた毎日の憂さを晴らすためか、イベントの打ち上げなのか、はたまた日常的なのか解かりませんが、今から40年ほど前には中学校からはよくビールの注文があったそうです。
当時配達したのは中学生のまるよしの息子です。
箱入りのビールを中学校までバイクで届けに行きますが、先生たちは無免許運転でも何も言わなかったそうです。
その時代は酒を飲んで車で帰ったり、無免許のおじぃ・おばぁが車やバイクを運転するのが当たり前でした。
島の駐在さんも大目にみていたようです。
そんなおおらかな空気は最近までずっと続いていましたが、2015年の伊良部大橋の開通を境に変わっていきました。
それが良いことなのか、悪いことなのかはよくわかりませんが、何か淋しい気持ちがするのはいけないことでしょうか。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<五ヶ里道>
伊良部島は今、宮古島市ですが、その前は伊良部町でした。沖縄県宮古郡伊良部町です。
もっとその前は、伊良部村でした。
伊良部村は1908年(明治41年)に設立されました。
伊良部村史によると、伊良部村時代の1915年(大正4年)には、勤労奉仕と言う名の村の住民の重労働によって、伊良部から佐和田までの南区5集落を結ぶ五ヶ里道(ごかりどう)が改修されたそうです。
それ以前はでこぼこ道で、雨が降るとぬかるんだり、道幅も人がやっと通れるほどの道だったそうですが、馬車や荷車が通れるようになりました。
改修後の五ヶ里道は伊良部島南区5集落の生活道路として、住民の生活を大変便利にしました。
その後、1978年(昭和53年)には舗装されて、20年ほど前には拡幅されます。
いまでも伊良部集落の入り口から、佐和田集落の入り口までの道は道路幅が広く、五ヶ里道の名残を感じさせます。
先代も民宿と商店をやっていましたが、この拡幅に伴う立ち退きによって、まるよしも2000年(平成12年)には今の姿になりました。
現在のまるよしのある場所にはアイスケーキの店があったそうです。
まるよしにお泊まりの方も、まるよしの前の道を見渡して昔の風景を想像してみるのも楽しいかもしれません。
バブルが続く伊良部島では五ヶ里道の道も、何年か後には今の姿を変えてしまう事も考えられます。
今の姿を改めて眼に焼き付けておくのも必要かもしれません。
まるよし前の道 (1024x690)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<潮干狩り>
昔から潮干狩りは、島の人の楽しみの一つでした。
大潮のころになると、まるよしがある伊良部島の南区の人たちは、今では中の島と呼ばれているカヤッフィャなどの下地島の海岸に潮干狩りに行ったそうです。
南区の伊良部、仲地、国仲、長浜、佐和田の各集落からは、集落に架かるそれぞれの橋を渡ってカヤッフィャやカッフィ、ピサラブ、プゥルなどの下地島の海岸を目指します。
当時の下地島にはまだ飛行場が無く、見渡す限りのサトウキビ畑です。
それぞれの集落からは、サトウキビのなかの網の目のような道を通って、目指す海岸に行けたそうです。
当時は車も少なく、馬車で行ったり、歩いて行くのが当たり前でした。
子供たちは途中の入り江で海水浴をしたり、魚釣りなどをして遊びますが、潮干狩りをする海岸で今のように潜りを楽しむ訳ではありません。
潮干狩りはサザエやシャコガイなどを探す楽しみであると同時に、実益を得る場所でもありました。
南区の集落で海水浴と言えば、入り江や波の穏やかな佐和田の浜の浅瀬でするのが日常でした。
そんな訳で、意外に思われる方もいると思いますが、島の人の中には泳ぎが苦手な人も結構います。
潮干狩りカッフィ (1024x690)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<青酸カリ>
ずっと昔、伊良部島では簡単に青酸カリが手に入ったそうです。
詳しい使い道は定かでありませんが、当時青酸カリはネズミ退治や、製糖工場で機械のメンテナンスに使ったとか言われています。
そんな事もあって、伊良部島の集落の店でも売られていたという話です。
当時、青酸カリは秘密の漁にも使用されていました。
手に入れた青酸カリはママレモンの空き容器に入れられます。
青酸カリの入った容器は、工事現場で使われていたダイナマイトの火薬と信管を使って手づくり爆弾になります。
朝ドラのまんぷくにも登場した爆弾漁と青酸カリを使った青酸カリ漁を合体した最強の漁です。
漁に向かうのはフナウサギバナタ辺りから絶壁の獣道を下っていくシンビジの海です。
青酸カリ入りのビンを魚の群れに投げ入れると、大量のアジが浮いたそうです。
獲れた獲物は網に入れて担ぎ上げます。
そもそも漁そのものが危険ですが、15キロから20キロの収穫を絶壁の上まで担いで登るのは大変な重労働であると同時に命がけだったそうです。
爆弾漁もダイナマイト漁も青酸カリ漁も当然違法であると共に、危険なので間違っても試さないでください。
フナウサギバナタからのシンビジ (1024x692)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<ポットン便所>
今はほとんどの家のトイレは水洗になっていて、家の中にあります。
昔のトイレはポットン便所で家の外にありました。
汲み取り式便所はボットン便所とかボッタン便所とか数多くの言い方があるようですが、伊良部ではポットンです。
トイレ周りが綺麗になってポットン便所が珍しくなった頃、まだ家がポットン便所の子供はそのことを恥ずかしく思っていました。
特に便所に屋根の無い家では傘をさして便所に入らなければならないので、その家の子供はなおさらです。
子供心は純粋で当時、家庭訪問の時には先生が便所に行かないようにと祈っていたそうです。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<空き瓶回収>
オリオンビール (569x1024)今はドリンクと言えば、ペットボトルか缶入りですが、昔はほとんどが瓶入りでした。
ビールも当然瓶入りです。
当時はガラスも貴重で空き瓶は回収されて、再利用されます。
あるメーカーの瓶に他社のビールのラベルが貼ってある瓶が普通だったと記憶していますが、思い違いでしょうか。
ビールの瓶を店に持っていくと1本に付き20円もらえました。
当然コーラも瓶入りで、1リットル瓶の空き瓶を店に持って行くと20円、蓋付は30円でした。
空き瓶を持っていくと瓶代をもらえ、その瓶は店の裏に積まれます。
伊良部のぼうちらは自分で持ってきた瓶が商店の裏に積まれると、こっそり運び出しては他の商店に持っていって小銭を貰っていたそうです。
そんな事が繰り返し出来たのは、その当時は集落にたくさん商店が有った事もあるようですが、店のおじぃおばぁも子供のする事を大目にみていたのかもしれません。
今の時代も当時でも犯罪ですが、子供なりに頭を使って小遣い稼ぎをしていたようです。
使い捨て全盛の今では、そのような小遣い稼ぎは出来ませんが、物を大事にする当時だからこその悪さでした。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<民間療法>
「読めば宮古」にも書かれていましたが、昔は湿疹などで肌が痒くなると、島ぞうりを炙って痒い所を叩いたそうです。
伊良部島でも同じことがあって、島サバを炙ってパンパンと軽く叩いてもらうと、不思議に痒みがおさまったということです。
同じようなことは「二日酔いには三ツ矢サイダーが効く」とか、「片栗粉も二日酔いに良い」とか、「傷をした時は、畑の土を塗ればよい」とか、「石油を塗って消毒した」とか、「お腹が痛い時はタバコを吸わせると良い」など数限りなくあります。
「風邪をひいて喉が痛いときは、アロエの葉肉を食べると一発で治る」と言っている人もいますが、伊良部島ではアロエの事を「医者いらず」と呼ぶので、これは何となく効きそうです。
医学的根拠は定かでない民間療法と言える場合もありますが、物の無い時代、手に入る物で色々と工夫をしていたことは間違いありません。
いずれにしろ、これで治るんだ思うと精神的な力は今でも大切かもしれません。
島ぞうり (1024x691)


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2002年4月に発売され宮古島で大ベストセラーになった「読めば宮古」。そんな話が伊良部にもたくさんあります。まるよしで夜な夜な語られる伊良部の話を紹介していきます。

【んきゃーん(昔の)伊良部】
<食糧難>
ちまたでは何かにつけて東京オリンピックの話題がのぼりますが、前回の東京オリンピックは昭和39年(1964年)の開催でした。
当時はオリンピックに向けて巨費を投じて様々な物が整備されて、豊かな時代の幕開けのように言われています。
同じ頃、沖縄ではまだ貧しくて、物資の少なく食糧難の時代でした。
伊良部では芋の葉やカタツムリを食べていた家もありました。
昭和40年代の半ば頃になると小学校でも給食がでるようになりましが、出るのはパンだけでおかずは自前です。
貧しい家庭では10セントのジャムだけという事もあったそうです。
今でこそグルメの時代で食べ物が豊富ですが、その時代を知っている人は食べ物を大事にします。
食べきれなかった食事は捨てずに、次のご飯のおかずになります。
まるよしでも、ついたくさん頼んでしまったおかずはお持ち帰りできるようになっていて、地元の人は必ずパックで持ち帰ります。
さすがに生ものは無理ですが、観光で訪れた方も食べきれない時は、遠慮せずに夜食にお持ち帰りください。
トンカツチャーハン (1024x625)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<宮古空港>
宮古空港には現在、一日約15便が那覇・宮古間に就航しています。
現在のターミナルビルは1997年7月に出来たもので、離島のターミナルビルとしては石垣空港より先に更新されました。
現在のターミナルビルは滑走路の東側にありますが、以前のターミナルビルは滑走路の西の平良港側にありました。
そのため空港から平良市街地に行くのには今よりもずっと近い距離でした。
当時タクシーは初乗りが300円台だったこともあって、タクシーで空港から平良市街地に行っても1,000円でお釣りがきたものです。
伊良部島に渡る平良港の桟橋は、現在「まてぃだ通り」と呼ばれている市役所のある通りを下った突き当たりにありました。
今の港よりも近い場所にありましたが、伊良部大橋が架かるずっと前なので、空港から伊良部島へ行くのも半日がかりでした。
宮古空港に着いても、今のように「何時に帰れるよ」とはいきません。
何時の船に乗れるか解らない事もあり、お昼頃とか夕方頃と言ったアバウトな表現しか出来ませんでした。
その頃は、そんな風に時間が読めない事もあってか、今よりも更に時間にアバウトだった事は確実です。
旧宮古空港 (1024x462)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<バブル>
伊良部大橋が架かるずっと前、一人の男が伊良部町の役場を訪れました。
男の姿は肉体労働者風で、決して裕福な人の格好では有りませんでした。
男の相談内容は伊良部島のリゾート開発の件でした。
役場の人は一通り話を聞いたそうですが、門前払いのような形で体よくお帰り願ったようです。
その後、その男は宮古島の上野村の役場に姿を現します。
上野村では男を丁重に応対し、話を真剣に聞いたそうです。
その結果、上野村には大手資本の一大リゾート地が開発され、いまでもその規模は成長し続けています。
そのような話がまことしやかに伝わっていますが、本当の所は誰にも解りません。
仮にその話が本当で、伊良部島でもし話を受けいれていたら、どうなっていたでしょう。
時計の針は元には戻せませんが、今の伊良部島の姿とは全く違っていたものになっていたことは、誰にでも想像できます。
いま伊良部島はバブルと言われていますが、バブルが20年以上前に起こっていたかもしれません。
人生と同じで、未来の道への分岐点はどこにあるかわかりません。
結果がどちらに転んだ方が良かったかは解りませんが、いずれにしろ人は外見で判断してはいけないということでしょうか。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<不倫の森>
1972年沖縄が本土に復帰しました。
サシバはこの年に保護鳥となり、捕獲が禁止されました。
サシバの捕獲が禁止されると、抜け道を求める人が続々と出現します。
佐和田の深底地区の竹中と呼ばれていた場所では、サシバを捕ったり、魚釣りの竿に利用される長い竹が生えていたそうです。
当時この辺りは、不倫の森と呼ばれていて秘密のデートの場所だったと同時にサシバ捕りの場所でもありました。
サシバ捕りにはアベックで森に車を乗り入れます。
当局の監視の目を逃れて、ツギャという囮小屋で待ち伏せしたり、木に登って長い竹竿でサシバを捕まえます。
サシバ捕りに使った竹は森に隠され、捕ったサシバはスペアタイヤが入るスペースに入れられます。
監視員もそこまでのチェックはしなかったそうですし、不倫を装ったカップルへの監視は自然と緩みます。
時は流れて、元祖不倫の森付近は灌漑用のため池になって、周辺には竹も見当たらずネムノキが生い茂っています。
森に入れなくなると密会の場所は牧山に移って、牧山付近の森が不倫の森と呼ばれるようになります。
今でも夜に牧山辺りに行くと、ヤマインと呼ばれます。
深底地区 (1024x691)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<運転免許再発行>
昔の伊良部島では学校を卒業すると、内地へ働きにいく人がたくさんいました。
中学や高校を卒業すると、既に働きに行っている先輩の紹介などで伊良部の人は都会に出ていきます。
仕事は地元でも皆やっていたスラブ打ちの影響か、土間屋と言われる左官業に就くことが多いようです。
働きに出る先は大阪圏内、名古屋圏、横浜、千葉を中心とした関東圏内とあちこちです。
慣れない都会生活で緊張する場合が多いせいか、同じ島の出身者と酒を飲んでストレスを発散する機会が増えます。
酔って免許証を財布ごと落としたり、電車で眠ってしまいスリの被害に遭うこともありました。
仕事には自動車利用なので、運転免許証は必須です。
離島の離島の伊良部島に本籍があるので、再発行に必要な書類を取り寄せるのも大変です。
手続きに慣れないことや、当時はネット全盛の今と違って郵便でのやり取りになるため、再発行にはかなりの時間がかかったそうです。
今は伊良部島に戻っているまるよしの常連さんは、内地にいる時に何回か再発行の手続きをして、再発行のベテランになったそうです。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<カルチャーショック>
1970年代に下地島空港の工事が始まると、伊良部島もある種のカルチャーショックに襲われます。
内地の大手の建設業者の宿泊設備が設置され、大型ダンプや色々な運搬建設機械が搬入されました。
1771年の明和の大津波で打ち上げられた津波石(コーラル)は最新鋭の重機で圧迫されて砕かれ、ベルトコンベアーで運ばれます。
運ばれた石は最新の10tトラックで運ばれて、埋め立てられて行きます。いづれも当時の島の人にとっては、生まれて初めて見る光景でした。
佐和田付近には、尖ったサンゴ岩などでパンクした巨大なタイヤを修理する場所が設置されました。
巨大な重機が動く姿や大きいタイヤが修理される事自体が物珍しくて、子どもたちに取っては最高の見世物になります。
学校が終わると子ども達は工事現場に駆けつけて、眼を輝かせて工事の進捗を見つめます。
時代は巡って、下地島空港は来年3月のLCCの就航に伴い、ターミナルビルの工事などが急ピッチで進めらていますが、また何かカルチャーショックが起きるのでしょうか。
20181111下地島空港 (1024x692)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<一周道路>
島と言えば海沿いに一周道路をドライブするのが定番です。
特に観光スポットが無くても、一周道路を風を感じながら走ると、なんとも言えない心地よさを感じます。
沖縄の離島でも多くの島に一周道路が整備されています。
宮古諸島でも宮古島、池間島、伊良部島、下地島、多良間島などに一周道路があります。
どの島も道路は綺麗に整備されて、ちゃんと歩道も有ります。
また高い山が無いので、ドライブ以外にもサイクリングにも最適です。
因みに大神島でも一周道路を造る計画が有りましたが、工事の最中に不思議な出来事が有って結局中止になりました。
伊良部島の一周道路ではフナウサギバナタから白鳥崎へ向かう西海岸の道や、佐良浜池間添の園地からヤマトブー大岩へ向かう道が絶景ポイントになっています。
下地島の一周道路は奇岩を望む佐和田の浜付近、17エンドを通る空港の管理道路、中の島海岸を過ぎて渡口に向かう海へ落ちるような道や2キロ以上の直線が続くシュガーロードなど見所がたくさん有ります。
シュガーロードができる前はもっと外側の道が一周道路でしたが、今は旧道になっています。
通り池近辺の道も今のレーダー基地沿いの道が一周道路だったそうです。
伊良部大橋が出来るずっと前に、伊良部島のタクシー会社が作成したマップにはシュガーロードなどはまだ掲載されていませんでした。
興味のある方は旧道を走ってみるのも、新しい景色との出会いが有って楽しいかも知れません。
20181103新生タクシー地図 (1024x744)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<飲み屋街>
宮古島では西里の一大飲み屋街、通称イーザトが有名ですが、伊良部島にも飲み屋街があります。
正確には「ありました」と言うのが正しくなってしまいました。
国仲橋を渡ってガソリンスタンドの裏に建つ雑居ビルを思わせる飲み屋街。
昼間は全く目立たず、夜もあまり目立ちませんでしたが、夜の帳が降りると一組、二組と集まって来ます。
お客さんが居ると朝まで営業し、製糖期には24時間稼働する製糖工場に合わせて24時間営業する店もあったとか。
地元のママさんの他にも、内地から来ているアルバイトのお姉さんも接客をします。
伊良部大橋が架かる前は、伊良部島、特に南区の男性たちが最後に行き着く夜の終着点で、居酒屋等で勢いを付けた人々が続々と集まって来たものでした。
まるよしで地元のお兄さんと意気投合した内地のお客さんもオトーリで痛い目にあったようです。
橋が架かると伊良部島の男たちは、手軽に行けるようになったイーザトを目指します。
橋が出来てお客さんが減ったのか、下地島空港の復活をビジネスチャンスと狙った内地の資本に目を付けられたのか、飲み屋街に最後まで残っていた店も閉まって、解体工事中です。
跡地には下地島空港の再開に合わせて、レンタカー屋が開業するとの噂です。
かつては伊良部島の夜の社交場で、親しみを込めてお化け屋敷などと呼んだ人もいた飲み屋街も無くなってみると寂しさを覚えます。
20181026飲み屋街地図 (742x501)

20181026飲み屋街 (1024x690)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<昔の道>
下地島空港がある場所は1972年に空港の建設工事が始まるまではサトウキビ畑と海でした。
その頃は、まるよしのある国仲の集落からは昔の国仲橋を渡って通り池や現在、中の島と言われているカヤッファまで行ける道があったそうです。
一面のキビ畑の中は網の目のように農道が走っていて、国仲以外にも南区の伊良部、仲地、長浜、佐和田の各集落からそれぞれの集落にかかる橋を渡って、通り池や中の島海岸など下地島の西海岸に出る道が有りました。
当時は車もほとんど無く、馬車も少なかったので、ほとんどの場合は歩いて行ったそうです。
国仲の子供たちはその道を通って海遊びや潮干狩りに、大人たちは畑仕事やサシバ捕りに行きます。
飲み水の話では、佐良浜のサバウツガーの水を汲みに階段を往復した過酷な歴史が有名ですが、南区でも水不足の時は、はるばる通り池まで飲み水を求めて歩いて行ったそうです。
通り池に水が少ないときは、中の島海岸と隣のアッタバサマの間の洞窟に滴る水にまで足を延ばします。
当時、使われていた道は空港用地になった土地を除けば今も残っています。
興味の有るかたは、昔に想いを馳せて、サトウキビ畑の道を探索してみてください。
昔の道 (1024x691)


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<ラブホ3連泊>
今年は台風の発生が多く、天気予報を見ると毎日のように台風情報が流れています。
宮古島も最大瞬間風速70mが予想された台風8号が直撃しましたが、伊良部大橋の通行止めは約1日で済みました。
伊良部大橋が架かる前は台風が来ると、伊良部島と宮古島を結ぶ定期船の欠航は当たり前の事でした。
そのもっと昔は船も小型で、海が荒れると定期船はすぐに欠航しました。
台風に当たると欠航は何日も続きます。
伊良部島から宮古島に出かけても、帰れなくなることが日常的でした。
宮古島に泊まるとなると宿泊代も馬鹿になりません。
安い宿は直ぐに一杯になります。
当時、宮古島に働きに行っていたSお姉さんは船が欠航すると料金の安いラブホに泊まります。
「エッチするなら車の中で十分」と普段はラブホに行きませんが、台風の時に3連泊したことがあるそうです。
ホテルの受付の人もビックリしたとかで、ラブホ3連泊と語り継がれています。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<車事情>
昔、伊良部島では車と言えば軽トラックや軽のワンボックスカーが主流で実用的な車ばかりでした。
その時代、伊良部島で走っていた乗用車もグレーや白、黒といった地味な色が多く、派手な色の乗用車や高級車は乗っていた人はごく一部でした。
当時、カラフルな目立つ車と言えば「わ」ナンバーのレンタカーばかりです。
フェリーに乗るときはナンバーを見なくてもすぐに見分けがついたものです。
因みに当時はまだ「れ」ナンバーは有りませんでした。
そんな訳で、島の運転に慣れないレンタカーを見分けるのに苦労は無かったのですが、いつの頃からか島の人もカラフルな乗用車を乗り回すようになりました。
橋が架かってからは、色も形も様々な車を見かけるようになって、平均時速も大分速くなったような気がします。
慎重な島の人はこちらが優先の十字路でも一時停止したり、スピードを落とします。
最近伊良部島でも交通事故が急増しているようです。
時代が変わって運転事情も変化したようですが、島の大きさは同じです。
そんなに急いでもたいして変わりませんよ。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<サザエ>
旧暦の3月3日はサニツです。
女性たちが一日浜に出て春の到来を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をする日です。
宮古島では八重干瀬が姿を現す日として知られています。
サニツに代表されるように大潮の干潮時の潮干狩りは島の人には大きな楽しみのひとつでした。
引き潮の時間に合わせてサザエやシャコガイ、タコなどの獲物を狙って海に出かけます。
40年から50年ほど前は海も手付かずで、サンゴや岩の隙間の穴という穴にはサザエがゴロゴロいました。
海に入らなくても大潮の干潮時には海岸を見渡しただけでサザエがまるで採ってくださいとばかりに見えたそうです。
家族や友達と出かけて、競争してサザエを採ります。
採るといっても自家消費分だけで根こそぎ採って商売にするわけではありません。
最近はアーサーを採っても新聞沙汰になる時代ですが、昔は色々とうるさく言わないのんびりとした時代でした。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<運転免許>
来間島では来間大橋が架かる前、無免許で軽トラを運転したり、車検を通してしない車が普通に走っていたとかいう話を聞いたことがあります。
離島の離島にはありがちな話ですが、伊良部島でも似たようなことがあったようです。
伊良部大橋が架かるずっとずっと前は一種の治外法権で、免許を持っていないのに運転したり、車検を通していない車やナンバープレートのない車が公道を走っているのは日常茶飯事でした。
佐良浜にあった自動車練習所に自分で運転して通ったり、宮古島で行われる本免の時に飲酒して行ったりと今では信じられない話がたくさんあります。
本免の際に眼鏡を忘れて行ったが大丈夫だったという話しもあります。
原付バイクの免許は実地のみだったそうで、警察官立会いのもとにカントリーパークを一周すればオーケーだったそうです。
今でもその時に免許を取ったと思われるおばぁが原付を運転している可能性もあるので、皆様安全運転で行きましょう。


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【んきゃーん(昔の)伊良部】
<渡し舟>
2015年1月に伊良部大橋が開通して3年が経過して、自動車で伊良部島から平良に行くのは普通のことになりました。
橋が架かる前、フェリーや高速船は大体1時間に1便で、船待ちしていたのが懐かしく思われます。
スーパーライナーやはやて、うぷゆう、ゆがふ、ゆうむつなどの船名もだんだん忘れられて行きます。
更にずっと前には1日1便の時代もあったそうです。
当時はフェリーや高速船ではなく渡し舟の時代でした。
400人余りが乗れる木の船で渡口の桟橋から1時間かかって平良港に着きます。
平良に行くとカツ丼を食べたり、古謝そばで宮古そばを食べたり都会の文化に触れてきます。
現在ニュー丸勝のホテルがある裏には、丸勝デパートがあって屋上には遊園地がありました。
伊良部島から平良に行った子供は丸勝に行くのを楽しみにしていたそうです。
今はちょっと寂れた感の西里大通りですが、当時はそれは華やかだったそうです。
観光で来られた方もそんな思いで是非歩いてみてください。


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